以前「企業にいると腐るし濁る」で企業に属した社員の一抹の哀しさめいたようなことを、一考し、私なりの言葉で表現した。
その中で、企業は社員に対して「環境」なるものを、企業的な見方ではあるが教育しているところがあるとも、書き記した。しかし、この中身にも不安は残るとも記した。意識の低い経営者(金儲けだけには長けているかもしれないが)が必ずいるわけであり、その意識の低さが社員を成長させないと指摘した。
いままで、自慢できることではないが、いろいろな職場を体験してきた。かつて、環境分析や食品衛生分析を主とした職場に所属していた。ここでの会話は実に面白かったことを覚えている。「環境」や「衛生」が話題なわけである。いわゆるサービス産業は物造りとは一線を画していると感じるのだ。物造りの研究所などでは雰囲気は異なるだろうが。しかし、現状では製造業の一角に留まっている。
どの企業でもそうであるが、「企業の社会的責任」に先行し、企業は「企業営利」を第一の目的とするのが当たり前だ。サービス業にしろ製造業にしろ立場は同じである。営利がなければ、社員に給与を支払うこともできない。また、熾烈なグローバル化の中では生き残るために少しでも「営利」を追求し続けるのが企業と言うものである。
所詮、経営第一、社員は二の次、三の次、終いには派遣、契約社員、パート・アルバイトと労働環境も劣悪となってくる。
このような状況の中で、閉塞感を持たずに元気よく働くことができようか。一部のものは権力を利用しパワーハラスメント、少数の社員で多くの仕事をこなさずにならないことによる、過重労働。鬱病の発生、自殺の発生はごく当たり前だ。また、経営者の都合による解雇や解雇に追い込むような人事など、酷いありようである。私は見てきたし、体験もした。これから再度体験するかもしれない一抹の不安を抱えている。
話を戻そう。余裕のない働き方に追い込まれた人たちが、大勢いる中で、社員教育としての「環境」は有効性のあることになるだろうか。生活に追われた人々には見つめることのできない方向である。
科学を生業の一部として生きてきた私が過去に働いてきた職場では現在の「環境」とは異なるものの、ある意味で「科学批評」ができる職場風土であったことには誇りを持っている。
しかし、製造業の一角、それも所詮中小企業。「環境」語ることなどでき得るはずもない。一抹の寂しさを感じる。
私にとっては「大きな違和感」が、心の中で燻ぶっている。もやもやした思いをどこに吐き出せばよいか迷い続けている。賃金を得なくては生きていけない自分と、全くベクトルが逆の自分が今を生きているのだ。
少なくとも、会社の方向が明るく健全であれば、心の持ちようも変わるだろうし、自然とエコが語れる職場にもなるだろう、しかし、浅き夢である。他の従業員たちの仲間意識が閉じた世界を作る可能性が見えるし、自分には仲間がいないという孤立感がある。常に私は自由でいたい。
現在の格差社会、格差社会が引き起こしている企業内の歪み、怨念が蠢いているかのようだ。政治・行政にはもはや力はない。NGO・NPO・ユニオンが格差社会、歪んだ会社を正していかねばならないのだろう。
私は普通にエコが語れない職場がある以上、地球温暖化など解決はしないと考えている。エコを実践している少数の企業だけでは不足だ。企業に所属することがエコを実践させるようになる、そんな企業が必要なのである。エコに目覚めさせる企業教育を実施する企業を増やしていくことが必要である。
【違和感】これを解決することを必死に考えている。闘うことも考えている。近い将来、私はきっと、私自身の足で歩みを始めねばならなくなるだろうし、治まりがつかないと考えている。
G8は確実に実行可能な地球温暖化への答えも出さずに終わった。次の世代へ手渡しできる社会を浅知恵を振り絞って歩もうと思う。

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