内なる野蛮
いつからだろうか。自分に対して不利益をもたらす人間をどうにかしてやりたいという衝動にかられることが、よく頭の中に浮かんでくるのである。簡単に言ってしまえば、その人間をこの世の中から抹殺してしまいたい衝動だ。そんなことを、やってしまえば反社会的行為であり、法的に処罰される。仮に完全犯罪ができたとしても、人の道を外した野蛮を引きずり、孤独にさいなまれながら生きなくてはない。
しかし、そのストーリーを頭の中で私は反復し、時には数十人の輩を抹殺して妙なカタルシスを味わう。所詮想像だけなのだから誰にとがめられるわけでもなく、人の道を外したわけでもない。その抹殺したい輩どもの名前を人に漏らしたわけでもなく誰にも勘ぐられることもない。
政治家、企業人、仕事上の対人関係が私の中で餌食になるのだ。そのときの想像は時として、つまらないバイオレンス映画をしのぐ光景が広がっている。こうした観念に取り付かれるのは狂気なのかも知れない、しかし、人間に生まれたから持ちえる内なる野蛮なのかもしれない。
我々日本人は殺し合いを繰り返しながら、近代日本を生み出した。そして近代日本はついには海外と殺し合いを繰り返し現代日本を生み出した。今を生きているのは、その殺し合いに運よく助かった末裔である。戦争という殺し合いは、多くの命を抹殺する。そして、今でも実際に戦争によって命が抹殺されている。
個人的な怨念で人を抹殺することと戦争で抹殺されることは、何処が違うと言うのだろうか。答えは、圧倒的な武力で国家間で行われる戦いであり、常に民間人を巻き込んでいることだろうか。戦争という野蛮もまた人間が行っていることには違いはない。
内なる野蛮、狂気は誰しもが持つものだろう。ひょっとするとあなたの中にも抹殺したいと思う人がいるのではないだろうか。戦争という野蛮に比べれば、たわいもなく小さい。しかし、確実に内なる野蛮、狂気は私の中で小さな炎してくすぶっていることも確かだ。けれど、その炎は外には出て行くことはない。理性という強固なものによって私は狂気を包囲しているからだ。
| Permalink
| Comments (0)
| TrackBack (0)
|






















Recent Comments